家族旅行すら断っていた無気力人間


私が最後に両親と旅行へ行ったのは、私が小学生のときだった。


私の家が特に貧しかったとか、中学生のときに両親が亡くなった、というわけではない。

ただ単に、私が家族旅行を嫌がったのだ。


家族だけで旅行に行ってもつまらない、それならゲームでもしていたい、と思っていた。


そして、おそらく自分の家族だけで旅行に行ったのは、小学2年か3年のときが最後だったと思う。

それ以降は私の友人も一緒に連れていってもらっていた。


もちろん友人の分の宿泊費等は友人の両親に出してもらっていた。

しかし、大人になった今考えると、他人の子供を旅行に連れて行くというのは、万が一のときの責任も発生する上に、相手の家庭の懐事情も鑑みて宿泊先等を決めなくてはならず、本心ではかなり面倒だったと思う。

仮に私が親の立場だったら確実に断っている。

そうでなければ私が旅行に行かないので、仕方なく了承したのだろう。


両親としては私が幼いうちに旅行に連れて行って思い出を作りたかったのかもしれない。

あるいは、子供のうちに旅行へ行くことも、私にとって将来役に立つ経験の一つと思っていたのかもしれない。


高校生になると、父が仕事で1週間ほど海外へ行くので母とともについてこないか、と言われたが、それも面倒だと断った。

そのとき、母は海外へ行くことも経験しておいた方が良い、と説得しようとしたが、当時の私には響かなかった。

学校の修学旅行も国内しか行かなかったので、結果的に20代になって初めて海外へ行くことになり、やはり準備の仕方が分からずそれなりに困ることになった。


最後に家族だけで旅行に行った先は、おそらく福井だったと思う。


父は釣りが好きだったので、ときどき一人で海に行っていたし、家族で海に行くこともあった。

家が太平洋側にあったので、それまでは夏休みに海へ行くとなると、必ず太平洋側の海へ行っていた。

いつも行っている太平洋側に行ってもつまらない、日本海側へ行きたい、と私が言ったので、初めて日本海を見に行くことになったのだ。


日本海側は岩場が多いが、水が透き通っていて海の底が見えるくらいだった。

それまで見ていた太平洋側の海は、常に濁っている。

海ってこんなに綺麗な場所もあるのか、と感動したのを覚えている

未だに行ったことはないが、沖縄やタヒチとかの海はもっと綺麗なのだろう。


父はもう亡くなったので、それが両親と家族だけで旅行に行った最後の思い出となった。


大学進学に際し、私は家を出て一人暮らしを始めた。

それ以降、実家に帰るのは多いときで年3回、少なければ年1回だった。

一般的な親子と比べると、父と一緒に過ごした時間は短い方だろう。


せめて子供の時の家族旅行くらいもう少し行っておけば良かったと思う。


お節介ながら私と同じように家族旅行をいつも断っている人がいたら、是非たまには行くことも検討してみてほしいと思う。



珍しく海外に行ってみて



今年は仕事でアメリカへ行く機会があった。

去年まではあまりなかったことだ。


私は今まで、英語学習に対するモチベーションが低かった。

まず、外国人と英語で話をする機会は、私にはほとんどなかった。

一方、英語の読み書きであれば、多少時間をかければ完璧ではないにしても調べながらなんとでもなるし、契約などの重要な場面では専門家を呼べばいい、と考えていた。


だがアメリカへ行ってみて、やはり英語を話せるようになりたいと思った。



私も同僚も英語が拙いので通訳付きで行くのだが、その通訳が何故かあまり翻訳してくれなかったりする。


こちらが日本語で話せば当然通訳してくれるのだが、相手が英語で話してもたまにしか通訳してくれない。

どうしても分からなくて通訳をお願いするとようやく訳してくれる。


また、雑談の際はたいした内容でもないので、やはり通訳してくれない。

そうなると、自分の英語力の無さに打ちのめされることになる。


英語力のない人間にとっては、英語の環境は非常に疲れる。

私の同僚も、私よりは英語がマシな人もいるが、やはり疲れるのは同様だろう。

少なくともビジネスの話は通訳なしでは成り立たない。


一方、通訳は楽しそうに現地の人と英語で雑談していた。

現地の人は、性別、年齢も様々だが、数日経つ頃には皆と仲良くなっていた。

通訳は日本人の男性で、一時期海外に住んでいたことがあるそうだ。


その人の人柄もあると思うが、言葉が喋れれば案外簡単に現地の人と打ち解けられるものなんだな、と感じた。

正直、女性なら優しくされることはあっても、アジア人の男性が英語を喋れるくらいでそんなに簡単に受け入れられるとは思っていなかった。

それを感じられただけでもアメリカに行った価値があったと思う。


だが、それ以上に重要なことは、彼らが非常に貴重な情報を持っているということだ。


なんせ彼らにとってイノベーションお家芸みたいなものだ。

素晴らしいベンチャー企業がたくさんある。

日本語による情報発信がされていないものも多いだろう。


ビジネスのコンサルタントがクライアントに何かしらの提案をするとき、「別の業界で当たり前の手法をクライアントの業界に適用する」「他の国で成功した手法をクライアントの業界に適用する」という、ある意味転用しただけのアイデア提案をすることが多い、と聞いたことがある。

といっても、他では当たり前だったとしても、クライアントが知らなければ有益な情報だろう。


これと同じように、米国等海外のイノベーティブな情報をいち早くキャッチし、それを日本で紹介できるだけで、一気に人材としての価値が上がると思う。

英語が話せることは、ある階層の人たちにとっては当たり前なのかもしれない。

しかし、そうでない集団の中にいれば、やはり価値は高いだろう。


私はゼロをイチにするアイデアを出せる人間が一番価値が高いと思っているのだが、1人の人間がアイデアを出すスピードにもやはり限界がある。

外から見ると、ズルいが情報の横流しの方が有益なのかもしれない。


そうなってくると、英語を無視できなくなってきてしまう。

正直、面倒なので勉強したくはないが。。




努力をしなかったことで不利益を被ると、努力の価値に気付く

今週のお題「わたしのモチベーションを上げるもの」



昔の私は他に類を見ないほどの無気力人間だった。

いや、今も完全に治っているわけではないのだが…


例えば、一人暮らしをしていた頃は、ベッドから起き上がりたくないがために、ご飯を何も食べずに過ごす日がよくあった。

もちろん、風邪だった訳ではなく、ただ単に怠かったのだ。

特にハードな活動をした後でもないのに、起き上がるくらいなら空腹でいい、と考えて2日間寝続けていた。


また、特別何かを頑張ったという経験もなかった。

勉強もいい加減、運動にも興味がなく、部活は入部後3日だけ参加してその後は行くのをやめた。

それにコミュニケーション能力が高くて友人が多いといったタイプでもなく、アクティブに遊んで過ごしていた訳でもない。

ただゲームをやるかぼーっとして過ごしていた。


一方、一応そこそこ人気企業だったらしい自分の会社の中で上司同僚後輩達を見ると、就活を勝ち上がるだけあって、やはり何か頑張った経歴を持っている人が多い。


分類すると、大枠下記のようなタイプだ。


⑴「勉強も運動もそこそこ頑張ってきました!」という文武両道タイプ

⑵「とにかく勉強だけは頑張ってきました!」というガリ勉タイプ

⑶「勉強はできないけど部活で実績を残してきました!」という体育会系タイプ

⑷「研究で賞を取るなどの実績を残しました!」「海外経験が豊富です!」等の特殊能力タイプ


非常に定性的だが、大抵の人は⑴⑵で、チラホラ⑶⑷がいる、といった具合だ。


私はこの4つのどのタイプにも当てはまっておらず、何かの間違いで偶然入社してしまっただけの人間だった。


そのため、入社した頃、私は同僚達のモチベーションの高さ、社会適合性の高さに驚いた。


まず、上司の言うことにはよく従うし、会社の細かいルールにもよく従う。

基本、偉い人や人事の言うことを聞くことが生き残る必要条件と認識した上での行動だと思うが、仕事自体はもちろん、しょうもない飲み会の幹事ですらとにかくしっかりやろうとする。

さらに、コミュニケーション能力にも問題なく、見た目も比較的良い人が多い。


そして目の前の仕事をこなすだけでなく、自己研鑽にも積極的だ。


私生活も真面目な人が多くて、男性は早く結婚する人が多い。(忙しいからか女性はどちらかというと遅くなりがち)

ステレオタイプな見方だが、「いい大学に入っていい会社に入り、結婚して子供を作るのが良い人生の最低条件」という考え方をしているように思う。


いい大学を出ていたり、体育会系で鍛えられた人は、我慢強い人が多い印象だ。

本人は頑張っていないつもりでも、無気力人間の私からすると、よく耐えられるな、と感心してしまう。


私は仕事についてはそれなりに楽しんでいたし、頑張っていたつもりではあったが、周りから見ればまあ緩い仕事ぶりだったと思う。というか、それは今でもあまり変わっていないが。。

フレックスタイムをふんだんに使って上司よりもはるかに遅く出社し、出社後はまずデスクの引き出しに入れてあるお菓子を食べ、メールの確認を始める。

朝は煎餅、昼はチョコレートがお菓子の定番だ。


さらには飲み会の幹事を任されたのに理由をつけてサボったりしていた。


私は出世には全く興味がなく、自分が興味のある仕事をやらせてもらえてさえいれば、給料が低くても全然問題ないと思っていた。


割と歳が近い人から見ると出世欲がなく敵にならなくて都合が良いという考えもあったのか、単純に面白がってくれていたと思う。


だが上位職と人事にとっては掴みどころがなくてイマイチ言うことを聞かない、使いにくい人間だっただろう。


入社して数年経つと、昇給や昇格に差がつき始める。

やはりどちらかというと私よりは他の同僚の方が昇格、昇給が早かった。


当時の私は、それだけであれば、それほど気にしなかっただろう。


ところが、年次を重ねていくと、昇格の有無に関係なく、役職に着くまでは結局同じような仕事を任される。


自分より上の職制の人の方が楽な仕事をして、自分は給料が安くてもハードな仕事をさせられる、といったことも当然起こる。


同期が昇格し、私が昇格しなかった年、私がしていた仕事は、睡眠を毎日2、3時間しか取れないほどハードで、仕事内容も私が興味が持っていたものではなく、さらにその分野の専門家ですら出来ないと諦めた困難な課題を絶対に解決しなければならない挑戦的な内容であるにも関わらず、成功しても大して評価されない、という、複雑な事情で最悪な内容のものだった。


こんな扱いを受けるなら少しは努力しておいた方がよい。

全く何もしないのと比べたら、少し頑張るだけで、段違いの効果がある。


前向きな活動の方が、追われて仕方なく対処する活動より、精神的な負担が少ない。



かまいたちの夜

今週のお題「ゲームの思い出」


私は全く本を読まない子供だったが、受験の時期に模試を受けると、中学の国語や高校の現代文の成績は悪くなかった。(と言ってもたかが知れてるが)

現代文読解の勉強なんてしたことないし、漢字すらほとんど勉強していなかった。

こういうのは文章をたくさん読んでいる人が得意なものではないのか…他の人はあまりやっていないのに自分はやっていることが何かあるのだろうか。


なぜか不思議だったのだが、あるとき気づいたことがある。


「ゲームはやりまくってたやないか!」


ゲームと言ってもいろいろあるが、文章を読まなくてはならない物も多い。

例えば攻略法を調べずにRPGをクリアするためには、街の人などの話を聞いて(読んで)、理解して進めていかなくてはならない。

しかも早く先に進めたいので、早く読んで理解しようとする。


そして私がやったゲームの中でおそらく最も文章を読まなくてはならなかったのは、「かまいたちの夜」だ。

知っている人には超懐かしくて誰かと思い出話をしたくなってしまうような名作だと思う。

これは「サウンドノベル」というジャンルのゲームで、当時は割と珍しかった。

ゲーム画面上で小説を読み進めると、

ところどころで選択肢が現れ、主人公がどういった行動を取るか決める、

その選択によって、小説の内容が変わっていく、

そしてバックでは音楽が流れ、要所で効果音が鳴り、小説を盛り上げる、

というものだ。


本を読むのが嫌いだった私は、このゲームへの第一印象として、「音楽聴きながら本を読むだけじゃないのか?」と、ゲームとしての価値があるのか疑問だった。

だが、ドラクエを製作していた関係者が作ったゲームであるとの情報を聞き、それなら面白いのかもしれないと、なんとなく買ってしまったのだった。


やってみるとかなりハマった。

プロの小説家が文章を書いてるだけあって、話が面白い。

読み手に顔を想像させるためか登場人物がすべて影だけになっており、そのシュールな映像も少し話題を呼んだ。


メインのストーリーとしては、こんな感じだった。

主人公は大学生の男で、好意を持っている友人の女性と一緒に山奥のペンションに来ている。

そこで殺人事件が起こる。

まだ携帯電話が普及する前で、宿の電話線は切れてしまって繋がらず、しかも天気が悪く大吹雪。

陸の孤島にあるペンションなので、全く外界と連絡がつかない。

ペンションの従業員か客の中に犯人がいるのは間違い無いのだが、しかたなくみんなでお互いを監視しながら翌日まで過ごそうとする。

しかし、犯人が隙をみて次々に人を殺していく。

早く犯人を見つけないと全滅…といった話だ。


途中で関西弁のおっさんが犯人だと推理し、地下室に閉じ込めるが、その後に殺人が起こってしまう。

地下室の鍵を確認しに行くと、鍵が開いている。

あのおっさんが逃げたのか…と地下室に確認しに行くとき、子供だった私は恐怖を感じながらも、夢中になって読み進めた。


結局、最初のプレイでは主人公が隙をつかれて犯人に殺されてゲームオーバー。

自分が殺されても犯人は分からないようになっていた。

何度もプレイして何度も読み返しているうちに犯人が分かり、ようやく途中で捕まえることができるようになった。


一度クリアすると新しい選択肢が現れ、また違う話が出てくるようになる。

ペンションに各国のスパイが集結しており、自分の友人も実はスパイだというぶっとんだ話、幽霊が出るというこれまた現実味のないオカルト的な話。。


どれも熱中してプレイしているうちに、確実に私の読解力は上がっていただろう。


意外とゲームが勉強の役に立つこともあるものだ。


それにしてもこの懐かしいゲーム、誰か語り合いたくなってきた。




歳を取ることへの恐怖

今週のお題「星に願いを」



子供の頃、歳を取ることが恐怖だった。


大人になればそれほど楽しいことはもうないだろう、仕事や家庭の責任が重くて息苦しく、嫌なことばかりの毎日になるだろう、そう思っていた。


なにより、自分が大人になったからといって、何か特別な人間になることはもちろん、まともな大人になれる気すらしなかった。

何もできないのに老けた自分をイメージすると、どうしようもなく虚しい存在に感じられた。

何の役にも立たないのに許されるのは、未来がある子供だからだ。


歳をとることへの恐怖は大人になった今でもある。

だが、考え方は少し変わった。


大人になっても楽しいことはある。

意外と仕事も楽しかったりする。

もちろん仕事を辞めたいと思うことは沢山あるが、悩みながらも自分でアイデアを出しながら新しいものを生み出したり、問題解決したりすることは楽しいものだ。

少しは適正が認められたからそういう仕事ができるようになった面もあるのかもしれない。


それに責任を負うことによって、ある程度の自由が手に入る場合もある。

また、責任を負うことが、収入をあげたり、より価値の高い仕事をするための条件になる場合も多い。

そして責任を持つといっても、大抵の場合、大きな失敗をしたからといって仕事をクビにされることはあっても殺されはしない。

責任を負うことにも子供の頃よりは前向きになった。


今現在、自分が年齢に見合う能力を身につけているかと考えると、あまり自信がない。

だが、社会に出てからは意欲的に頑張る人たちに影響されて、少しは成長するようになった気がする。


学生のうちはまさに意識低い系のトップを走る人間で、何事にも本気で取り組まなかった。

今にして思うと、それが歳を取ることへの恐怖を加速していたのではないか。


健康、体力、見た目の良さ、人生に残された時間、親…

人間は歳を取ると失うことが多い。

歳を取った分、出来ることや楽しみを増やしていかなければ、当然失うことの方が多くなる。

歳を取ることが怖くて当然だ。


重ねる歳に負けないようにできることを増やしていく。

それが唯一、歳を取る恐怖から逃れる方法ではないか。




今は忙しく働いていても何とかなる。

周りを観察した上でのイメージだが、おそらく40代中盤くらいまではある程度無理な生活にも耐えられるのではないか。

でも50代、60代になれば体力的にそうはいかないかもしれない。

それなら自由と経済的な余裕を確保しつつも、無理なく成果を出せ、それを周囲に認めさせる力と立場が必要になる。


歳を取っても今より楽しく過ごせる能力や立場を手に入れる。

それが私の願いだ。



サッカー選手や監督の第一ミッションとは?

初めに断っておくと、私はサッカーファンではない。

ファンではないどころか、かなり興味がない部類の人間だと思う。

中学高校くらいの頃は、ワールドカップ日本代表のゲームを1秒も観なかったとクラスメイトに正直に話して非難されることもしばしばあった。

今もほとんど観ないのだけれど、いい大人なので、さすがに強く非難されることはない。

たまに、あんたは人生で何が楽しみなんだ?と嫌味を言われるくらいだ。

(ちなみにスポーツ観戦以外でならそれなりに楽しみはある)


そんな私だが、たまたま気が向いて、6/28の日本vsポーランド戦をテレビで観ていた。

サッカーの試合を見ることが全く無い訳ではなく、観たら観たで結構面白く観れるものだったりする。


この試合は、終了10分前くらいから、かなり特殊な状況になった。


日本は、コロンビア、セネガルポーランドと一緒の予選グループに入っており、この4チームで総当たり戦をして2チームのみが決勝トーナメントに出場できるらしかった。


ルールはよく知らないが、勝てば勝ち点3点、引き分けると勝ち点1点で、基本的には勝ち点が多い2チームが決勝に進出する。

勝ち点で差がつかない場合は得失点差の合計が多い順に、得失点差でも差がつかない場合は得点数の合計が多い順に、それでも差がつかない場合はイエローカードの数が少ない順に出場チームが決まるそうだ。


日本vsポーランドは予選第3戦目で、日本はポーランドに対して勝つか引き分ければ確実に決勝進出が決まる、という状況だった。


しかし、後半が始まって少し経った頃、日本はポーランドに1点を入れられ、1-0になってしまった。


実力的にはポーランドは日本より上と評価されていたが、それまでの予選2戦は負けていた。

3戦全敗では自国のファンにボロクソに言われてしまうので、最低でも一勝はしたいという状況だったようだ。

日本が勝つか引き分けになる可能性はどちらかというと低い。


一方、1-0で負けても日本が予選通過できる可能性があった。

それは、同時に行われていたコロンビアvsセネガル戦で、セネガルが0点のままコロンビアが勝てば、セネガルと日本は勝ち点、得失点差、得点数で並ぶ。

それまでの試合でイエローカードの数は日本が少なかったので、日本が予選2位で通過できる。


ポーランドに1点取られたときは、必死で挽回しなくては、という雰囲気だったが、試合時間10分を残したあたりで、1-0でコロンビアがセネガルに勝っている、という情報が入ると、急に選手たちの行動が変わった。

日本は全く攻めなくなり、パスを回すだけで時間稼ぎをする作戦に出たのだ。

仮に1-0のままコロンビアがセネガルに勝つと予想した場合、日本はポーランドに2点目を入れられなければ予選突破できる。

ポーランドの方はそもそも何点とっても予選敗退が決まっていたので、最後のゲームが勝ちで終わってくれればなんでもいい。

その結果、どちらのチームも一切点を取りに行かなくなってとてもつまらないゲームになってしまったのだ。


そういう状況になってからの10分間、会場はブーイングに包まれていた。

私はサッカーファンではないので、正直予選敗退するならするで別に良かった。

ただ今観ている試合が面白い方が重要だった。


だが、監督や選手にとっては当然そうではない。

やはり予選突破できなかったら、ファンからかなり批判されるようだ。

それに報酬も変わってくるのだろう。

サッカーの解説者やテレビ局なんかも決勝トーナメントに出てくれた方が懐が潤う。

予選突破することを第一優先にしても無理はないし、予選突破のみを目標と考えるなら、ポーランドの都合も計算した上で割り切ったいい作戦で、個人的にはむしろ清々しさすら感じる。


しかし、サッカーで必死に勝とうとするのはなぜなのだろうか。

あえて言えば、単なるサッカーごときで。


それは、選手や監督個人をベースに考えれば、勝った実績が報酬や名声に繋がるからだろう。

そして、サッカー業界全体のビジネスとしての意味は、勝つために切磋琢磨して必死で戦う姿や、それによって生まれるプレーを見たい人がいることによって、直接的にしろ間接的にしろお金が入るからだ。


本来、プロサッカーの顧客にとっては、なんでもいいから勝てば良い訳ではなく、勝ちにいく過程を観て楽しめることが重要なのではないかと思う。


私個人の希望としては、観ている客が楽めることを第一ミッションにしてほしかったという気持ちはあるが、サッカーファンの方々にとっては次のゲームも見られる方が嬉しいのかもしれない。


いずれにしても、自らが成長するためによく考え、ハードなトレーニングを続け、強烈なプレッシャーの中で結果を出していくアスリート達を尊敬しているので、それほど文句を言うつもりはない。





便座カバーつけてる奴って何考えてるんだ?

世の中には家のトイレに便座カバーをつけたがる人がいる。

特に女性。


ファンシーな感じを出したいのだろうか。

それともそちらの方が清潔感があると思っているのだろうか。


毎日しっかりと洗濯しているならまだしも、そうでなければ便座カバーなんて雑菌の温床というイメージしかない。


毎日わざわざ便座カバーを外して洗うのは面倒だろう。

実際、毎日洗っているという人はあまり聞いたことがない。(そもそも毎日洗っているかなんて質問は滅多にしないけど)

便座カバーさえなければ、トイレクイックルとかで拭くだけで掃除できるし、掃除しなかったとしても布地の便座カバーをつけるよりは雑菌が増殖しにくいのではないか。


それに便器と便座カバーの間が滑るのも嫌いだ。


便座カバーとかつけたがるのは、一人暮らしの経験が少ない女性が多い気がする。


しっかりしてるイメージを保ちたくて、まだ面倒さに耐えることができているのだろう。


そんなことを頑張るくらいなら仕事で残業でもしていた方がまだ有意義だと思う。


なんで便座カバーなんてつける必要があるんだ?という感覚の人は意外と多いはずだ。


トイレのインテリアに拘ることは悪くないと思うが、便座カバーだけは回避したコーディネートにしてほしい。